T:『史記』	司馬遷
V:055:巻第五十五（世家）
B:055:留侯世家第二十五


C:055:01:出自・始皇帝襲撃

留侯張良者、其先韓人也。大父開地、相韓昭侯、宣恵王、襄哀王。父平、相釐王、悼恵王。悼恵王二十三年、平卒。卒二十歳、秦滅韓。良年少、未宦事韓。韓破、良家僮三百人、弟死不葬、悉以家財求客刺秦王、為韓報仇。以大父父五世相韓故。
良嘗学礼淮陽、東見倉海君、得力士。為鉄椎重百二十斤。秦皇帝東游、良与客狙、撃秦皇帝博浪沙中。誤中副車。秦皇帝大怒、大索天下、求賊甚急。為張良故也。良乃更名姓、亡匿下邳。
K:55:01:1:留侯張良は、其の先は韓人なり。大父の開地は、韓の昭侯、宣恵王、襄哀王に相たり。父平は、釐王、悼恵王に相たり。悼恵王の二十三年、平卒す。卒して二十歳にして、秦韓を滅ぼす。良年少く、未だ韓に宦事せず。韓破るるや、良、家僮三百人あり、弟死すれども葬らず、悉く家財を以て客の秦王を刺すものを求め、韓の為に仇を報いんとす。大父と父が五世韓に相たりしを以ての故なり。
K:55:01:2:良嘗て礼を淮陽に学び、東して倉海君に見え、力士を得たり。鉄椎を為る、重さ百二十斤。秦の皇帝の東游するや、良客と狙ひ、秦の皇帝を博浪沙の中に撃つ。誤りて副車に中つ。秦の皇帝大いに怒り、大いに天下を索め、賊を求むること甚だ急なり。張良の為の故なり。良乃ち名姓を更め、亡げて下邳に匿る。


C:055:02:太公の兵法

良嘗間従容歩游下邳圯上。
有一老父、衣褐、至良所、直堕其履圯下、顧謂良曰「孺子、下取履。」
良鄂然、欲殴之。為其老、強忍、下取履。
父曰「履我。」良業為取履、因長跪履之。父以足受、笑而去。
良殊大驚、随目之。父去裏所、復還曰「孺子可教矣。後五日平明、与我会此。」
良因怪之、跪曰「諾。」五日平明、良往。父已先在、怒曰「与老人期、後何也。去。」曰「後五日早会。」
五日雞鳴、良往。父又先在、復怒曰「後、何也。」去、曰「後五日復早来。」
五日、良夜未半往。有頃、父亦来、喜曰「当如是。」
出一編書曰「読此則為王者師矣。後十年興。十三年孺子見我。済北穀城山下黄石即我矣。」遂去、無他言、不復見。
旦日視其書、乃太公兵法也。良因異之、常習誦読之。
K:055:02:良嘗て間かに従容として歩し、下邳圯上に游ぶ。一老父有り、褐を衣、良の所に至り、直らに其の履を圯下に堕とし、顧みて良に謂ひて曰はく、「孺子、下りて履を取れ」と。良鄂然として、之を殴たんと欲す。其の老なるが為に、強ひて忍び、下りて履を取れり。父曰はく、「我に履かしめよ」と。良業に為に履を取れり、因りて長跪して之に履かしむ。父足を以て受け、笑ひて去る。良殊に大いに驚き、随ひて之を目す。父去ること裏所にして、復た還りて曰はく、「孺子教ふべし。後五日平明に、我と此に会せよ」と。良因りて之を怪しみ、跪きて曰はく、「諾」と。五日平明に、良往く。父已に先づ在り、怒りて曰はく、「老人と期するに、後るるは何ぞや。去れ」と。曰はく、「後五日、早く会せよ」と。五日雞鳴に、良往く。父又先づ在り、復た怒りて曰はく、「後るるは何ぞや。去れ」と。曰はく、「後五日、復た早く来たれ」と。五日、良夜未だ半ばならざるに往く。頃く有りて、父も亦来り、喜びて曰はく、「当に是くのごとくなるべし」と。一編の書を出だして曰はく、「此れを読まば則ち王者の師と為らん。後十年にして興らん。十三年にして孺子我を見ん。済北の穀城山下の黄石は即ち我なり」と。遂に去り、他の言無く復た見えず。旦日其の書を視れば、乃ち太公の兵法なり。良因りて之を異とし、常に習ひ之を誦読す。


C:055:03:項羽と劉邦

居下邳、為任侠。項伯常殺人、従良匿。
後十年、陳渉等起兵。良亦聚少年百余人。景駒自立為楚仮王在留。良欲往従之。
道遇沛公。沛公将数千人、略地下邳西。遂属焉。沛公拝良為厩将。良数以太公兵法説沛公、沛公善之、常用其策。良為他人言、皆不省。良曰「沛公殆天授。」故遂従之。不去見景駒。
及沛公之薛、見項梁、項梁立楚懐王、良乃説項梁曰「君已立楚後。而韓諸公子横陽君成賢。可立為王、益樹党。」項梁使良求韓成、立以為韓王、以良為韓申徒。与韓王将千余人西略韓地、得数城。秦輒復取之。
往来為游兵潁川。
沛公之従雒陽南出轘轅、良引兵従沛公、下韓十余城、撃破楊熊軍。沛公乃令韓王成留守陽翟、与良倶南、攻下宛、西入武関。
沛公欲以兵二万人撃秦嶢下軍、良説曰「秦兵尚強、未可軽。臣聞其将屠者子。賈豎易動以利。願沛公且留壁、使人先行、為五万人具食、益為張旗幟諸山上、為疑兵、令酈食其持重宝啗秦将。」秦将果畔、欲連和倶西襲咸陽、沛公欲聴之。良曰「此独其将欲叛耳、恐士卒不従。不従必危、不如因其解撃之。」沛公乃引兵撃秦軍、大破之。遂北至藍田、再戦。秦兵竟敗。遂至咸陽。秦王子嬰降沛公。
K:055:03:1:下邳に居り、任侠を為す。項伯常て人を殺し、良に従ひて匿る。後十年、陳渉等兵を起こす。良も亦少年百余人を聚む。景駒自立し楚の仮王と為り、留に在り。良往きて之に従はんと欲す。道にして沛公に遇ふ。沛公数千人を将ゐ、地を下邳の西に略して、遂に焉に属せしむ。沛公良を拝して厩将と為す。良数太公の兵法を以て沛公に説き、沛公之を善しとし、常に其の策を用ふ。良他人の為に言ふも、皆省みず。良曰はく、「沛公は殆ど天授なり」と。故に遂に之に従ひ、去りて景駒を見ず。
K:055:03:2:沛公の薛に之き、項梁を見、項梁の楚の懐王を立つるに及び、良乃ち項梁に説きて曰はく、「君已に楚の後を立つ。而して韓の諸公子横陽君成は賢なり。立てて王と為し、益々党を樹つべし」と。項梁良をして韓成を求めしめ、立てて以て韓王と為し、良を以て韓の申徒と為す。韓王と千余人を将ゐ、西して韓の地を略し、数城を得たり。秦輒ち復た之を取る。往来して潁川の游兵たり。
K:055:03:3:沛公の雒陽より南し、轘轅に出づるや、良、兵を引きて沛公に従ひ、韓の十余城を下し、撃ちて楊熊の軍を破る。沛公乃ち韓王成をして留まりて陽翟を守らしめ、良と倶に南して宛を攻め下し、西して武関に入る。沛公兵二万人を以て秦の嶢下の軍を撃たんと欲す。良説きて曰はく「秦兵は尚強し、未だ軽んずるべからず。臣聞く、『其の将は屠者の子なり』と。賈豎動かすに利を以て易し。願はくは沛公且く留まりて壁し、人をして先づ行きて五万人の為に食を具へしめ、益々為に旗幟を諸山の上に張り、疑兵を為り、酈食其をして重宝を持ちて秦の将に啗はしめよ」と。秦の将果たして畔き、連和して倶に西襲にて咸陽を襲はんと欲す。沛公之を聴かんと欲す。良曰はく「此れ独り其の将叛かんと欲するのみ。恐らくは士卒は従はざらん。其の解たるに因りて之を撃つに如かず」と。沛公乃ち兵を引きて秦軍を撃ち、大いに之を破る。遂に北して藍田に至り、再び戦ふ。秦兵竟に敗る。遂に咸陽に至る。秦王子嬰、沛公に降る。


C:055:04:沛公入関

沛公入秦宮。宮室帷帳狗馬重宝婦女以千数。意欲留居之。樊噲諫沛公出舎。沛公不聴。良曰「夫秦為無道、故沛公得至此。夫為天下除残賊、宜縞素為資。今始入秦、即安其楽、此所謂『助桀為虐』。且『忠言逆耳利於行、毒薬苦口利於病』、願沛公聴樊噲言。」沛公乃還軍覇上。
K:055:04:沛公秦宮に入る。宮室帷帳、狗馬重宝、婦女、千を以て数ふ。意留まりて之に居らんと欲す。樊噲沛公を諫め、「出でて舎せよ」と。沛公聴かず。良曰はく「夫れ秦無道を為せり、故に沛公此に至るを得たり。夫れ天下の為に残賊を除く、宜しく縞素して資と為すべし。今始めて秦に入り、即ち其の楽しみに安んぜば、此れ所謂『桀を助けて虐を為す』なり。且つ忠言は耳に逆へども行ひに利あり、毒薬は口に苦けれども病に利あり、願はくは沛公樊噲の言を聴け」と。沛公乃ち還りて覇上に軍す。


C:055:05:鴻門の会

項羽至鴻門下、欲撃沛公。項伯乃夜馳入沛公軍、私見張良、欲与倶去。良曰「臣為韓王送沛公、今事有急、亡去不義。」乃具以語沛公。
沛公大驚曰「為将奈何。」良曰「沛公誠欲倍項羽邪。」沛公曰「鯫生教我距関無内諸侯、秦地可尽王、故聴之。」良曰「沛公自度能卻項羽乎。」沛公黙然良久、曰「固不能也。今為奈何。」良乃固要項伯。項伯見沛公。沛公与飲為寿、結賓婚。令項伯具言「沛公不敢倍項羽、所以距関者、備他盗也。」及見項羽後解。語在項羽事中。
K:055:05:項羽鴻門の下に至り、沛公を撃たんと欲す。項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に入り、私に張良を見、与に倶に去らんと欲す。良曰はく「臣韓王の為に沛公を送れり。今事有急あり、亡げ去るは不義なり」と。乃ち具に以て沛公に語る。沛公大いに驚きて曰はく「為すこと将に奈何せん」と。良曰はく、「沛公誠に項羽に倍かんと欲するか」と。沛公曰はく「鯫生我に教ふらく、『関を距ぎ諸侯を内るること無かれ、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴けり」と。良曰はく「沛公自ら度るに能く項羽を卻けんか」と。沛公黙然たること良久しうして曰はく「固に能はざるなり。今為すこと奈何せん」と。良乃ち固く項伯を要す。項伯沛公に見ゆ。沛公与に飲みて寿を為し、賓婚を結ぶ。項伯をして具に「沛公敢へて項羽に倍かず、関を距ぐ所以は、他の盗に備ふるなり」と言はしむ。項羽を見るに及びて後に解く。語は項羽の事の中に在り。


C:055:06:蜀の桟道

漢元年正月、沛公為漢王、王巴蜀。漢王賜良金百鎰、珠二斗、良具以献項伯。漢王亦因令良厚遺項伯、使請漢中地。項王乃許之、遂得漢中地。漢王之国、良送至褒中、遣良帰韓。良因説漢王曰「王何不焼絶所過桟道、示天下無還心、以固項王意。」乃使良還。行、焼絶桟道。
良至韓、韓王成以良従漢王故、項王不遣成之国、従与倶東。良説項王曰「漢王焼絶桟道、無還心矣。」乃以斉王田栄反書告項王。項王以此無西憂漢心、而発兵北撃斉。
K:055:06:漢の元年正月、沛公漢王と為り、巴蜀に王たり。漢王良に金百鎰、珠二斗を賜ふ。良具に以て項伯に献ず。漢王も亦因つて良をして厚く項伯に遺らしめ、漢中の地を請はしむ。項王乃ち之を許し、遂に漢中を得たり。漢王国に之くや、良送りて褒中に至る。良を遣りて韓に帰らしむ。良因つて漢王に説きて曰はく「王何ぞ過ぐる所の桟道を焼絶し、天下に還心無きを示し、以て項王の意を固くせざる」と。乃ち良をして還るとき行々焼きて桟道を絶たしむ。良韓に至る。韓王成良が漢王に従ひしを以ての故に、項王成を遣りて国に之かしめず、従へて与に倶に東す。良項王に説きて曰はく「漢王桟道を焼絶し、還心無し」と。乃ち斉王田栄の反書を以て項王に告ぐ。項王此を以て西のかた漢を憂ふるの心無く、而して兵を発して北して斉を撃つ。


C:055:07:成信侯と為る

項王竟不肯遣韓王、乃以為侯、又殺之彭城。良亡、間行帰漢王。漢王亦已還定三秦矣。復以良為成信侯。従東撃楚、至彭城。漢敗而還、至下邑。
漢王下馬踞鞍而問曰「吾欲捐関以東。等棄之、誰可与共功者。」良進曰「九江王黥布、楚梟将、与項王有郤。彭越与斉王田栄反梁地。此両人可急使。而漢王之将独韓信可属大事、当一面。即欲捐之、捐之此三人、則楚可破也。」漢王乃遣随何説九江王布、而使人連彭越。及魏王豹反、使韓信将兵撃之。因挙燕、代、斉、趙。然卒破楚者、此三人力也。
張良多病、未嘗特将也、常為画策臣、時時従漢王。
K:055:07:項王竟に韓王を遣るを肯ぜず、乃ち以て侯と為す。又之を彭城に殺す。良亡げ、間行して漢王に帰す。漢王も亦已に還りて三秦を定む。復た良を以て成信侯と為す。従ひて東して楚を撃ち、彭城に至る。漢敗れて還り、下邑に至る。漢王下馬して鞍に踞して問ひて曰はく「吾、関以東を捐てんと欲す。等しく之を棄てんには、誰か与に功を共にすべき者ぞ」と。良進みて曰はく「九江王黥布は、楚梟将にして項王と郤有り。彭越は斉王田栄と与に梁の地に反せり。此の両人は急に使すべし。而して漢王の将は、独り韓信のみ、大事を属し一面に当らしむべし。即し之を捐てんと欲せんには、之を捐てんと欲せんには、之を此の三人に捐てば、則ち楚破るべきなり」と。漢王乃ち随何を遣して九江王布に説かしめ、而して人をして彭越を連ねしむ。魏王豹反するに及びて、韓信をして兵を将ゐて之を撃たしむ。因つて燕、代、斉、趙を挙ぐ。然して卒に楚を破りしは、此の三人の力なり。張良は多病にして、未だ嘗て特に将たらず。常に画策の臣たり、時時漢王に従ふ。


C:055:08:六国の印

漢三年、項羽急囲漢王滎陽。漢王恐憂、与酈食其謀橈楚権。食其曰「昔湯伐桀、封其後於杞。武王伐紂、封其後於宋。今秦失徳棄義、侵伐諸侯社稷、滅六国之後、使無立錐之地。陛下誠能復立六国後世、畢已受印、此其君臣百姓必皆戴陛下之徳、莫不郷風慕義、願為臣妾。徳義已行、陛下南郷称覇、楚必斂衽而朝。」漢王曰「善。趣刻印、先生因行佩之矣。」
食其未行、張良従外来謁。漢王方食、曰「子房前。客有為我計橈楚権者。」具以酈生語告曰「於子房何如。」
良曰「誰為陛下画此計者。陛下事去矣。」漢王曰「何哉。」張良対曰「臣請藉前箸為大王籌之。」
曰「昔者湯伐桀而封其後於杞者、度其制桀之死命也。今陛下能制項籍之死命乎。」曰「未能也。」「其不可一也。」
「武王伐紂封其後於宋者、度能得紂之頭也。今陛下能得項籍之頭乎。」曰「未能也。」「其不可二也。」
「武王入殷、表商容之閭、釈箕子之拘、封比干之墓。今陛下能封聖人之墓、表賢者之閭、式智者之門乎。」曰「未能也。」「其不可三也。」
「発鉅橋之粟、散鹿台之銭、以賜貧窮。今陛下能散府庫以賜貧窮乎。」曰「未能也。」「其不可四矣。」
「殷事已畢、偃革為軒、倒置干戈、覆以虎皮、以示天下不復用兵。今陛下能偃武行文、不復用兵乎。」曰「未能也。」「其不可五矣。」
「休馬華山之陽、示以無所為。今陛下能休馬無所用乎。」曰「未能也。」「其不可六矣。」
「放牛桃林之陰、以示不復輸積。今陛下能放牛不復輸積乎。」曰「未能也。」「其不可七矣。」
「且天下游士離其親戚、棄墳墓、去故旧、従陛下游者、徒欲日夜望咫尺之地。今復六国、立韓魏燕趙斉楚之後、天下游士各帰事其主、従其親戚、反其故旧墳墓、陛下与誰取天下乎。其不可八矣。且夫楚唯無強。六国立者復橈而従之。陛下焉得而臣之。誠用客之謀、陛下事去矣。」
漢王輟食吐哺、罵曰「豎儒、幾敗而公事。」令趣銷印。
K:055:08:1:漢の三年、項羽急に漢王を滎陽に囲む。漢王恐れ憂へ、酈食其と謀り楚の権を橈ます。食其曰はく「昔、湯桀を伐ち、其の後を杞に封ぜり。武王紂を伐ち、其の後を宋に封ぜり。今秦徳を失ひ義を棄て、諸侯の社稷を侵伐し、六国の後を滅ぼし、錐を立つるの地無からしむ。陛下誠し能く六国の後世を復立し、畢く已に印を受けば、此れ其の君臣百姓、必ず皆陛下の徳を戴き、風に郷ひ義を慕ひ、臣妾と為らんことを願はざるもの莫からん。徳義已に行はれ、陛下南郷して覇を称せば、楚必ず衽を斂めて朝せん」と。漢王曰はく「善し。趣かに刻印し、先生因つて行きて之を佩びしめよ」と。
K:055:08:2:食其未だ行かず、張良外より来りて謁す。漢王方に食すも、曰はく「子房前め。客に我が為に楚の権を橈まするを計る者有り」と。具に酈生の語を以て告げて曰はく「子房に於いては何如」と。良曰はく「誰か陛下の為に此の計を画せる者ぞ。陛下の事去らん」と。漢王曰はく「何ぞや」と。張良対へて曰はく「臣請ふ前の箸を藉りて大王の為に之を籌らん」と。曰はく「昔者、湯桀を伐ち而して其の後を杞に封ぜしは、其の死命を制するを度りたればなり。今陛下能く項籍の死命を制せんか」と。曰はく「未だ能はざるなり」と。「其の不可なる一なり。武王紂を伐ち其の後を宋に封ぜしは、能く紂の頭を得るを度りたればなり。今陛下能く項籍の頭を得んか。」曰はく「未だ能はざるなり」と。「其の不可なる二なり。」「武王殷に入り、商容の閭に表し、箕子の拘れを釈し、比干の墓を封ぜり。今陛下能く聖人の墓を封じ、賢者の閭に表し、智者の門に式せんか。」曰はく「未だ能はざるなり」と。「其の不可なる三なり。鉅橋の粟を発し、鹿台の銭を散じ、以て貧窮に賜ひき。今陛下能く府庫を散じ以て貧窮に賜はらんか。」曰はく「未だ能はざるなり」と。「其の不可なる四なり。」「殷の事已に畢り、革を偃せ軒と為し、干戈を倒置し、覆ふに虎皮を以てし、以て天下に復た兵を用ひざるを示せり。今陛下能く武を偃せ文を行ひ、復た兵を用ちざらんか。」曰はく「未だ能はざるなり」と。「其の不可たる五なり。」「馬を華山の陽に休め、示すに為す所無きを以てせり。今陛下能く馬を休め用ふるところ無からんや。」曰はく「未だ能はざるなり」と。「其の不可なる六なり。」「牛を桃林の陰に放ち、以て復た輸積せざるを示せり。今陛下能く牛を放ち、復た輸積せざらんか。」曰はく「未だ能ざるなり」と。「其の不可なる七なり。」「且つ天下の游士其親戚を離れ、墳墓を棄て、故旧を去り、陛下に従ひて游ぶは、徒に日夜咫尺の地を望まんと欲するなり。今六国を復し、韓魏燕趙斉楚の後を立てなば、天下の游士各々帰りて其の主に事へ、其の親戚に従ひ、其の故旧墳墓に反らん。陛下誰と天下を取らんや。其の不可なる八なり。且つ夫れ楚は唯だ強き無し。六国の立たん者復た橈みて之に従はん。陛下焉んぞ得て之を臣とせん。誠し客の謀を用ゐば、陛下の事去りなん」と。漢王食を輟め哺を吐き、罵りて曰はく「豎儒、幾ど而公の事を敗らんとせり」と。趣かに印を銷さしむ。


C:055:09:韓信を斉王とする

漢四年、韓信破斉而欲自立為斉王。漢王怒。張良説漢王、漢王使良授斉王信印。語在淮陰事中。其秋、漢王追楚至陽夏南。戦不利而壁固陵、諸侯期不至。良説漢王、漢王用其計。諸侯皆至。語在項籍事中。
K:055:09:漢の四年、韓信斉を破り自立して斉王と為らんと欲す。漢王怒る。張良漢王に説き、漢王良をして斉王信に印を授けしむ。語は淮陰の事の中に在り。其の秋、漢王楚を追ひ、陽夏の南に至る。戦利あらずして固陵に壁す。諸侯期すれども至らず。良漢王に説き、漢王其の計を用ふ。諸侯皆至る。語項籍の事の中に在り。


C:055:10:留侯に封ぜられる

漢六年正月、封功臣。良未嘗有戦闘功。高帝曰「運籌策帷帳中、決勝千里外、子房功也。自択斉三万戸。」良曰「始臣起下邳、与上会留、此天以臣授陛下。陛下用臣計、幸而時中。臣願封留足矣。不敢当三万戸。」乃封張良為留侯、与蕭何等倶封。
K:055:10:漢の六年正月、功臣を封ず。良未だ嘗て戦闘の功有あらず。高帝曰はく「籌策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房の功なり。自ら斉の三万戸を択べ」と。良曰はく「始め臣、下邳より起り、上と留に会へり。此れ天臣を以て陛下に授けしなり。陛下臣が計を用ゐ、幸にして時に中れり、臣願はくは留に封ぜられなば足りなん。敢へて三万戸に当らず」と。乃ち張良を封じて留侯と為し、蕭何等と倶に封ぜらる。


C:055:11:急に雍歯を封ずる

(六年)上已封大功臣二十余人、其余日夜争功不決、未得行封。
上在雒陽南宮、従復道望見諸将往往相与坐沙中語。上曰「此何語。」留侯曰「陛下不知乎。此謀反耳。」上曰「天下属安定、何故反乎。」留侯曰「陛下起布衣、以此属取天下。今陛下為天子、而所封皆蕭、曹故人所親愛、而所誅者皆生平所仇怨。今軍吏計功、以天下不足徧封。此属畏陛下不能尽封、恐又見疑平生過失及誅。故即相聚謀反耳。」
上乃憂曰「為之奈何。」留侯曰「上平生所憎、群臣所共知、誰最甚者。」上曰「雍歯与我故、数嘗窘辱我。我欲殺之、為其功多、故不忍。」留侯曰「今急先封雍歯以示群臣、群臣見雍歯封、則人人自堅矣。」
於是、上乃置酒、封雍歯為什方侯、而急趣丞相、御史定功行封。
群臣罷酒、皆喜曰「雍歯尚為侯、我属無患矣。」
K:055:11:(六年)上已に大功臣二十余人を封ず。其の余は日夜功を争ひ決せず。未だ封を行ふを得ず。上雒陽の南宮に在り、復道より諸将を望見するに、往往相与に沙中に坐して語る。上曰はく「此れ何をか語る」と。留侯曰はく「陛下知らざるか。此れ反を謀るのみ」と。上曰はく「天下属安定せり、何の故に反するか」と。留侯曰はく「陛下布衣より起ち、此の属を以て天下を取れり。今陛下天子と為り、而して封ずる所は皆蕭曹故人の親愛する所にして、誅する所の者は皆生平の仇怨する所なり。今軍吏功を計り、以へらく天下徧く封ずる足らずと。此の属陛下の尽く封ずること能はざらんことを畏れ、又平生の過失を疑はれて誅に及ばんことを恐る。故に即ち相聚まりて反を謀るのみ」と。
上乃ち憂へて曰はく「之を為すこと奈何せん」と。留侯曰はく「上の平生憎む所にして、群臣の共に知る所は、誰か最も甚だしき者ぞ」と。上曰はく「雍歯は我と故あり。数々嘗て我を窘辱せり。我之を殺さんと欲す。其の功多きが為に、故に忍びず」と。留侯曰はく「今急に先づ雍歯を封じ以て群臣に示せ。群臣雍歯が封ぜらるるを見ば、則ち人人自ら堅からん」と。是に於いて、上乃ち置酒し、雍歯を封じて什方侯と為し、而して急に丞相、御史を趣し、功を定め封を行ふ。群臣酒を罷め、皆喜びて曰はく「雍歯尚侯と為れり、我が属患無からん」と。

C:055:12:関中に都す

劉敬説高帝曰「都関中。」
上疑之。左右大臣皆山東人、多勧上「都雒陽。雒陽東有成皐、西有殽黽、倍河、向伊雒、其固亦足恃。」
留侯曰「雒陽雖有此固、其中小、不過数百里、田地薄、四面受敵、此非用武之国也。夫関中左殽函、右隴蜀、沃野千里、南有巴蜀之饒、北有胡苑之利、阻三面而守、独以一面東制諸侯。諸侯安定、河渭漕輓天下、西給京師、諸侯有変、順流而下、足以委輸。此所謂金城千里、天府之国也、劉敬説是也。」
於是、高帝即日駕、西都関中。留侯従入関。留侯性多病、即道引不食穀、杜門不出歳余。
K:055:12:劉敬高帝に説きて曰はく「関中に都せよ」と。上之を疑ふ。左右大臣は皆山東の人にして、多く上に勧めて「雒陽に都せよ。雒陽は東には成皐有り、西には殽黽有り、河に倍き伊雒に向ふ、其の固め亦恃むに足る」と。留侯曰はく「雒陽は此の固め有りと雖も、其の中は小にして、数百里に過ぎず。田地薄く、四面に敵を受く、此れ武を用ゐるの国に非ざるなり。夫れ関中は殽函を左にし、隴蜀を右にし、沃野千里、南に巴蜀の饒有り、北に胡苑の利有り、三面を阻てて守り、独り一面を以て東のかた諸侯を制す。諸侯安定ならば、河渭天下を漕輓し、西のかた京師に給す。諸侯変有らば、流れに順ひて下り、以て委輸するに足る。此れ所謂金城千里、天府の国なり。劉敬の説是なり」と。是に於いて、高帝即日駕し、西して関中に都す。留侯従ひて関に入る。留侯性多病なり、即ち道引し穀を食はず、門を杜ぢて出でざること歳余なり。


C:055:13:呂后、四皓を迎える

上欲廃太子、立戚夫人子趙王如意。大臣多諫争、未能得堅決者也。呂后恐、不知所為。
人或謂呂后曰「留侯善画計筴、上信用之。」呂后乃使建成侯呂澤劫留侯、曰「君常為上謀臣、今上欲易太子、君安得高枕而臥乎。」
留侯曰「始上数在困急之中、幸用臣筴。今天下安定、以愛欲易太子、骨肉之間、雖臣等百余人何益。」呂択強要曰「為我画計。」
留侯曰「此難以口舌争也。顧上有不能致者、天下有四人。四人者年老矣、皆以為上慢侮人、故逃匿山中、義不為漢臣。然上高此四人。今公誠能無愛金玉璧帛、令太子為書、卑辞安車、因使弁士固請、宜来。来、以為客、時時従入朝、令上見之、則必異而問之。問之、上知此四人賢、則一助也。」
於是、呂后令呂択使人奉太子書、卑辞厚礼、迎此四人。四人至、客建成侯所。
K:055:13:上、太子を廃し戚夫人の子趙王如意を立てんと欲す。大臣多諫争すれども、未だ堅く決する者を得る能はざるなり。呂后恐れ、為す所を知らず。人或いは呂后に謂ひて曰はく「留侯善く計筴を画し、上之を信用せり」と。呂后乃ち建成侯呂澤をして留侯を劫さしめて曰はく「君常に上の謀臣たり、今上太子を易へんと欲す。君安んぞ枕を高くして臥するを得んや」と。留侯曰はく「始め上数々困急の中に在り、幸に臣の筴を用ゐたり。今天下安定し、愛を以て太子を易へんと欲す。骨肉の間、臣等百余人と雖も、何の益あらん」と。呂澤強要して曰はく「我が為に画計せよ」と。留侯曰はく「此れ口舌を以て争ひ難きなり。顧ふに上致すこと能はざる者有り、天下に四人有り。四人の者は年老いたり。皆以為へらく、上は人を慢侮す、と。故に逃れて山中に匿れ、義として漢の臣と為らず。然れども上は此の四人を高しとす。今公誠し能く金玉璧帛を愛む無く、太子をして書を為らしめ、卑辞安車、因つて弁士をして固く請はしめば、宜しく来るべし。来らば以て客と為し、時時従へて入朝し、上をして之を見しめば、則ち必ず異として之を問はん。之を問ひ、上此の四人の賢なるを知らば、則ち一助なり」と。是に於いて、呂后呂澤に令して人をして太子の書を奉ぜしめ、辞を卑くし礼を厚くし、此の四人を迎へしむ。四人至り、建成侯の所に客たり。


C:055:14:黥布謀叛す

漢十一年、黥布反、上病、欲使太子将、往撃之。
四人相謂曰「凡来者、将以存太子。太子将兵、事危矣。」
乃説建成侯曰「太子将兵有功、則位不益。太子無功還、則従此受禍矣。且太子所与倶諸将、皆嘗与上定天下梟将也、今使太子将之、此無異使羊将狼也、皆不肯為尽力、其無功必矣。臣聞『母愛者子抱』。今戚夫人日夜待御、趙王如意常抱居前、上曰『終不使不肖子居愛子之上』。明乎、其代太子位必矣。君何不急請呂后承間為上泣言。『黥布、天下猛将也。善用兵。今諸将皆陛下故等夷、乃令太子将此属、無異使羊将狼。莫肯為用。且使布聞之、則鼓行而西耳。上雖病、強載輜車、臥而護之、諸将不敢不尽力。上雖苦、為妻子自強。』」
於是、呂澤立夜見呂后。呂后承間為上泣涕而言、如四人意。
上曰「吾惟豎子固不足遣、而公自行耳。」
於是、上自将兵而東、群臣居守、皆送至灞上。留侯病、自強起、至曲郵、見上曰「臣宜従、病甚。楚人剽疾、願上無与楚人争鋒。」因説上曰「令太子為将軍、監関中兵。」上曰「子房雖病、強臥而傅太子。」是時叔孫通為太傅、留侯行少傅事。
K:055:14:1:漢の十一年、黥布反するや、上病み、太子をして将として往きて之を撃しめんと欲す。四人相謂ひて曰はく「凡そ来れるは、将に以て太子を存せんとするなり。太子兵に将たるは、事危し」と。乃ち建成侯に説きて曰はく「太子兵に将として功有りとも、則ち位益さず。太子功無くして還らば、則ち此れより禍を受けん。且つ太子の与に倶にする所の諸将は、皆嘗て上と天下を定めし梟将なり。今太子をして之に将たらしむるは、此れ羊をして狼に将たらしむるに異なる無きなり。皆為に力を尽くすを肯ぜざらん。其の功無からんこと必せり。臣聞く『母愛せらるる者子抱かる』と。今戚夫人日夜待御し、趙王如意常に抱かれて前に居り。上曰はく『終に不肖の子をして愛子の上に居らしめじ』と。明らかなるかな、其の太子の位に代らんこと必せり。君何ぞ急に呂后に請ひ間を承けて上の為に泣きて言はしめざる。『黥布は天下の猛将なり。善く兵を用ふ。今諸将は皆陛下の故の等夷なり。乃ち太子をして此の属に将たらしむるは、羊をして狼に将たらしむるに異なる無し。用を為すを肯ずるもの莫からん。且つ布をして之を聞かしめば、則ち鼓行して西せんのみ。上病むと雖も、強ひて輜車に載り、臥して之を護せば、諸将敢へて力を尽くさずんばあらじ。上苦しむと雖も、妻子の為に自ら強めよ』」と。
K:055:14:2:是に於いて、呂澤立ちどころに夜呂后に見ゆ。呂后間を承けて上の為に泣涕して言ふこと、四人の意のごとくす。上曰はく「吾惟むに豎子固に遣るに足らず。而公自ら行かんのみ」と。是に於いて、上自ら兵に将として東す。群臣の居守するもの、皆送りて灞上に至る。留侯病む。自ら強めて起ちて曲郵に至り、上に見えて曰はく「臣宜しく従ふべけれども、病甚だし。楚人は剽疾なり、願はくは上楚人と鋒を争ふこと無かれ」と。因つて上に説きて曰「太子をして将軍と為し、関中の兵を監ぜしめよ」と。上曰はく「子房病むと雖も、強ひて臥しながらにして太子に傅たれ」と。是の時叔孫通太傅たり、留侯少傅の事を行ふ。


C:055:15:太子代えられず

漢十二年、上従撃破布軍帰、疾益甚、愈欲易太子。留侯諫不聴。因疾不視事。叔孫太傅称説引古今、以死争太子。上詳許之、猶欲易之。及燕置酒、太子侍。四人従太子、年皆八十有余、鬚眉皓白、衣冠甚偉。
上怪之、問曰「彼何為者。」四人前対、各言名姓。曰「東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公。」
上乃大驚、曰「吾求公数歳、公辟逃我。今公何自従吾児游乎。」四人皆曰「陛下軽士善罵、臣等義不受辱、故恐而亡匿。窃聞太子為人仁孝、恭敬愛士、天下莫不延頸欲為太子死者、故臣等来耳。」上曰「煩公幸卒調護太子。」四人為寿已畢、趨去。
上目送之、召戚夫人、指示四人者曰「我欲易之、彼四人輔之、羽翼已成、難動矣。呂后真而主矣。」戚夫人泣。上曰「為我楚舞、吾為若楚歌。」
歌曰「
　　鴻鵠高飛、一挙千里。羽翮已就、横絶四海。横絶四海、当可奈何。雖有矰繳、尚安所施。」歌数闋、戚夫人嘘唏流涕。
上起去、罷酒。竟不易太子者、留侯本招此四人之力也。
留侯従上撃代、出奇計馬邑下、及立蕭何相国、所与上従容言天下事甚衆、非天下所以存亡、故不著。
K:055:15:1:漢の十二年、上布の軍を撃ち破りてより帰り、疾益々甚だしく、愈々太子を易へんと欲す。留侯諫むれども聴かず。疾に因りて事を視ず。叔孫太傅称説古今を引き、死を以て太子を争ふ。上詳りて之を許す。猶之を易へんと欲す。燕して置酒するに及びて、太子侍す。四人太子に従ふ。年皆八十有余、鬚眉皓白、衣冠甚だ偉なり。上之を怪しみ、問ひて曰はく「彼は何為る者ぞ」と。四人前みて対へ、各々名姓を言ふ。曰はく「東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公」と。上乃ち大いに驚きて曰はく「吾公を求むること数歳なりしが、公我を逃辟せり。今公何によりて吾が児に従ひて游ぶか」と。四人皆曰滎じゃく「陛下は士を軽んじ善く罵しる。臣等義として辱を受けず。故に恐れて亡げ匿れたり。窃かに聞く、太子人と為り、仁孝恭敬にして士を愛し、天下頸を延ばして太子の為に死するを欲せざる者莫しと。故に臣等来れるのみ」と。上曰はく「公を煩はさん。幸に卒に太子を調護せよ」と。四人寿を為し、已に畢りて趨り去る。
K:055:15:2:上之を目送し、戚夫人を召し、四人の者を指さし示して曰はく「我之を易へんと欲すれども、彼の四人之を輔け、羽翼已成り、動かし難し。呂后は真に而の主なり」と。戚夫人泣く。上曰はく「我が為に楚舞せよ、吾若が為に楚歌せん」と。歌ひて曰はく「鴻鵠高く飛ぶ、一挙千里。羽翮已に就り、四海を横絶す。四海を横絶す、当に奈何すべき。矰繳有りと雖も、尚安くにか施す所あらん」と。歌ふこと数闋、戚夫人嘘唏流涕。上起ち去り、酒を罷む。竟に太子を易へざるは、留侯が本此の四人を招きたるの力なり。留侯上に従ひて代を撃ち、奇計を馬邑下に出だす。及び蕭何を相国に立つ。上と与に従容として天下の事を言ふ所、甚だ衆けれども、天下の存亡する所以に非ず。故に著さず。


C:055:16:留侯の晩年と没後

留侯乃称曰「家世相韓。及韓滅、不愛万金之資、為韓報讎強秦、天下振動。今以三寸舌為帝者師、封万戸、位列侯。此布衣之極、於良足矣。願棄人間事、欲従赤松子游耳。」
乃学辟穀、道引軽身。
会高帝崩。呂后徳留侯、乃強食之、曰「人生一世間、如白駒過隙。何至自苦如此乎。」
留侯不得已、強聴而食。後八年卒、謚為文成侯。子不疑代侯。
子房始所見下邳圯上老父与太公書者、後十三年従高帝過済北、果見谷城山下黄石、取而葆祠之。留侯死、并葬黄石(冢)。毎(上冢)伏臘、祠黄石。
留侯不疑、孝文帝五年坐不敬、国除。
K:055:16:留侯乃ち称して曰はく「家世々韓に相たり。韓滅ぶるに及びて、万金の資を愛まず、韓の為に讎を強秦に報い、天下振動せり。今三寸の舌を以て帝者の師と為り、万戸に封ぜられ、列侯に位す。此れ布衣の極にして、良に於いて足れり。願はくは人間の事を棄て、赤松子に従ひて游ばんと欲するのみ」と。乃ち穀を辟け道引し身を軽くするを学ぶ。会々高帝崩ず。呂后留侯を徳とし、乃ち強ひて之に食はしめ、曰はく「人生一世の間は、白駒の隙を過ぐるがごとし。何ぞ自ら苦しむこと此くのごときに至らんや」と。留侯已むを得ず、強ひて聴きて食す。後八年にして卒す。謚して文成侯と為す。子不疑代りて侯たり。子房が始め下邳の圯上に見し所の老父、太公の書を与へし者、後十三年、高帝に従ひて済北に過ぎ、果たして穀城山下の黄石を見、取りて之を葆祠す。留侯の死するや、并せて黄石を(冢に)葬る。(上冢)伏臘毎に、黄石を祠る。留侯不疑、孝文帝五年不敬に坐し、国除かる。


C:055:17:太史公言

太史公曰、学者多言無鬼神、然言有物。至如留侯所見老父予書、亦可怪矣。高祖離困者数矣、而留侯常有功力焉、豈可謂非天乎。上曰『夫運籌筴帷帳之中、決勝千里外、吾不如子房。』余以為其人計魁梧奇偉、至見其図、状貌如婦人好女。蓋孔子曰『以貌取人、失之子羽。』留侯亦云。
K:055:17:太史公曰はく、学者多く鬼神無しと言ふ、然れども物有りと言ふ。留侯の見し所の老父が書を予へしがごときに至りては、亦可怪しむべし。高祖、困に離る者数々なり。而して留侯常に功力有り。豈に天に非ずと謂ふべけんや。上曰はく『夫れ籌筴を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、吾子房に如かず』と。余以為へらく、其の人計ず魁梧奇偉なりと。其の図を見るに至りて、状貌婦人好女のごとし。蓋し孔子曰はく『貌を以て人を取れば、之を子羽に失す』と。留侯にも亦云ふ、と。