T:『源氏物語』	紫式部
V:37:横笛巻
A:37:光源氏49歳（准太政天皇）・夕霧28歳（大納言兼左大臣）・薫２歳・朱雀院52歳・女三の宮24歳


C:37:01:柏木一周忌の法要

　故権大納言のはかなく亡せ給ひにし悲しさを、飽かず口惜しきものに、恋ひしのび給ふ人多かり。六条の院にも、おほかたにつけてだに、世にめやすき人の亡くなるをば、惜しみ給ふ御心に、まして、これは、朝夕に親しく参り馴れつつ、人よりも御心とどめ思したりしかば、いかにぞやと、思し出づることはありながら、おはれは多く、折々につけて偲び給ふ。
　御果てにも、誦経など、取り分きせさせ給ふ。よろづも知らず顔にいはけなき御ありさまを見給ふにも、さすがにいみじくあはれなれば、御心のうちに、また心ざし給うて、黄金百両をなむ別にせさせ給ひける。大臣は、心も知らでぞかしこまり喜び聞こえさせ給ふ。
　大将の君も、ことども多くし給ひ、とりもちてねむごろに営み給ふ。かの一条の宮をも、このほどの御心ざし深く訪らひ聞こえ給ふ。兄弟の君たちよりもまさりたる御心のほどを、いとかくは思ひ聞こえざりきと、大臣、上も、喜び聞こえ給ふ。亡き後にも、世のおぼえ重くものし給ひけるほどの見ゆるに、いみじうあたらしうのみ、思し焦がるること、尽きせず。


C:37:02:朱雀院、女三の宮へ山菜を贈る

　山の帝は、二の宮も、かく人笑はれなるやうにて眺め給ふなり、入道の宮も、この世の人めかしきかたは、かけ離れ給ひぬれば、さまざまに飽かず思さるれど、すべてこの世を思し悩まじ、と忍び給ふ。御行なひのほどにも、同じ道をこそは勤め給ふらめ、など思しやりて、かかるさまになりたまて後は、はかなきことにつけても、絶えず聞こえ給ふ。
　御寺のかたはら近き林に抜き出でたる筍、そのわたりの山に掘れる野老などの、山里につけてはあはれなれば、奉れ給ふとて、御文こまやかなる端に、「春の野山、霞もたどたどしけれど、心ざし深く堀り出でさせて侍るしるしばかりになむ。
　　世を別れ入りなむ道はおくるとも同じところを君も尋ねよ
いと難きわざになむある。」と聞こえ給へるを、涙ぐみて見給ふほどに、大殿の君渡り給へり。
例ならず、御前近き櫑子どもを、「なぞ、あやし。」と御覧ずるに、院の御文なりけり。見給へば、いとあはれなり。
「今日か、明日かの心地するを、対面の心にかなはぬこと。」など、こまやかに書かせ給へり。この「同じところ」の御ともなひを、ことにをかしき節もなき。聖言葉なれど、「げに、さぞ思すらむかし。我さへおろかなるさまに見え奉りて、いとどうしろめたき御思ひの添ふべかめるを、いといとほし。」と思す。
　御返りつつましげに書き給ひて、御使には、青鈍の綾一襲賜ふ。書き変へ給へりける紙の、御几帳の側よりほの見ゆるを、取りて見給へば、御手はいとはかなげにて、　　憂き世にはあらぬところのゆかしくて背く山路に思ひこそ入れ」
「うしろめたげなる御けしきなるに、このあらぬ所求め給へる、いとうたて、心憂し」と聞こえ給ふ。
　今は、まほにも見え奉り給はず、いとうつくしうらうたげなる御額髪、面つきのをかしさ、ただ稚児のやうに見え給ひて、いみじうらうたきを見奉り給ふにつけては、「など、かうはなりにしことぞ」と、罪得ぬべく思さるれば、御几帳ばかり隔てて、またいとこよなう気遠く、疎々しうはあらぬほどに、もてなし聞こえてぞおはしける。


C:37:03:若君、筍を噛る

　若君は、乳母のもとに寝給へりける、起きて這ひ出で給ひて、御袖を引きまつはれ奉り給ふさま、いとうつくし。白き羅に、唐の小紋の紅梅の御衣の裾、いと長くしどけなげに引きやられて、御身はいとあらはにて、うしろの限りに着なし給へるさまは、例のことなれど、いとらうたげに白くそびやかに、柳を削りて作りたらむやうなり。
　頭は露草してことさらに色どりたらむ心地して、口つきうつくしうにほひ、まみのびらかに、恥づかしう薫りたるなどは、なほいとよく思ひ出でらるれど、
「かれは、いとかやうに際離れたるきよらはなかりしものを、いかでかからむ。宮にも似奉らず、今より気高くものものしう、さま異に見え給へるけしきなどは、わが御鏡の影にも似げなからず。」見なされ給ふ。
　わづかに歩みなどし給ふほどなり。この筍の櫑子に、何とも知らず立ち寄りて、いとあわたたしう取り散らして、食ひかなぐりなどし給へば、
「あな、らうがはしや。いと不便なり。かれ取り隠せ。食ひ物に目とどめ給ふと、もの言ひさがなき女房もこそ言ひなせ。」とて、笑ひ給ふ。
かき抱き給ひて、「この君のまみのいとけしきあるかな。小さきほどの稚児を、あまた見ねばにやあらむ、かばかりのほどは、ただいはけなきものとのみ見しを、今よりいとけはひ異なるこそ、わづらはしけれ。女宮ものし給ふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし。あはれ、そのおのおのの生ひゆく末までは、見果てむとすらむやは。花の盛りは、ありなめど。」と、うちまもり聞こえ給ふ。
「うたて、ゆゆしき御ことにも。」と、人々は聞こゆ。
　御歯の生ひ出づるに食ひ当てむとて、筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らし給へば、「いとねぢけたる色好みかな。」とて、「
　　憂き節も忘れずながら呉竹のこは捨て難きものにぞありける
」と、率て放ちて、のたまひかくれど、うち笑ひて、何とも思ひたらず、いとそそかしう、這ひ下り騷ぎ給ふ。


C:37:04:夕霧、一条宮邸を訪問

　月日に添へて、この君のうつくしうゆゆしきまで生ひまさり給ふに、まことに、この憂き節、皆思し忘れぬべし。
　この人の出でものし給ふべき契りにて、さる思ひの外の事もあるにこそはありけめ、逃れ難かなるわざぞかし、と、少しは思し直さる。みづからの御宿世も、なほ飽かぬこと多かり。
あまた集へ給へる中にも、この宮こそは、かたほなる思ひまじらず、人の御ありさまも、思ふに飽かぬところなくてものし給ふべきを、かく思はざりしさまにて見奉ること、と思すにつけてなむ、過ぎにし罪許し難く、なほ口惜しかりける。
　大将の君は、かの今はのとぢめにとどめし一言を、心ひとつに思ひ出でつつ、「いかなりしことぞ」とは、いと聞こえまほしう、御けしきもゆかしきを、ほの心得て思ひ寄らるることもあれば、なかなかうち出でて聞こえむもかたはらいたくて、いかならむついでに、この事の詳しきありさまも明きらめ、また、かの人の思ひ入りたりしさまをも聞こしめさむと、思ひわたり給ふ。


C:37:05:柏木遺愛の和琴と笛

　秋の夕べのものあはれなるに、一条の宮を思ひやり聞こえ給ひて、渡り給へり。うちとけ、しめやかに、御琴どもなど弾き給ふほどなるべし。深くもえ取りやらで、やがてその南の廂に入れ奉り給へり。端つ方なりける人の、ゐざり入りつるけはひどもしるく、衣の音なひも、おほかたの匂ひ香うばしく、心にくきほどなり。
　例の、御息所、対面し給ひて、昔の物語ども聞こえ交はし給ふ。わが御殿の、明け暮れ人しげくて、もの騒がしく、幼き君たちなど、すだき慌て給ふにならひ給ひて、いと静かにものあはれなり。うち荒れたる心地すれど、あてに気高く住みなし給ひて、前栽の花ども、虫の音しげき野辺と乱れたる夕映えを、見渡し給ふ。
　和琴を引き寄せ給へれば、律に調べられて、いとよく弾きならしたる、人香にしみて、なつかしうおぼゆ。
かやうなるあたりに、思ひのままなる好き心ある人は、静むることなくて、さま悪しきけはひをもあらはし、さるまじき名をも立つるぞかし、など、思ひ続けつつ、掻き鳴らし給ふ。
故君の常に弾き給ひし琴なりけり。をかしき手一つなど、少し弾き給ひて、「あはれ、いとめづらかなる音に掻き鳴らし給ひしはや。この御琴にも籠もりて侍らむかし。承りあらはしてしがな。」と宣へば、
「琴の緒絶えにし後より、昔の御童遊びの名残をだに、思ひ出で給はずなむなりにてはべめる。院の御前にて、女宮たちのとりどりの御琴ども、試み聞こえ給ひしにも、かやうの方は、おぼめかしからずものし給ふとなむ、定め聞こえ給ふめりしを、あらぬさまにほれぼれしうなりて、眺め過ぐし給ふめれば、世の憂きつまにといふやうになむ見給ふる」
と聞こえ給へば、
「いとことわりの御思ひなりや。限りだにある。」と、うち眺めて、琴は押しやり給へれば、
「かれ、なほさらば、声に伝はることもやと、聞きわくばかり鳴らさせ給へ。ものむつかしう思う給へ沈める耳をだに、明きらめ侍らむ。」と聞こえ給ふを、
「しか伝はる中の緒は、異にこそは侍らめ。それをこそ承らむとは聞こえつれ。」とて、御簾のもと近く押し寄せ給へど、とみにしも受けひき給ふまじきことなれば、しひても聞こえ給はず。
　月さし出でて曇りなき空に、羽うち交はす雁がねも、列を離れぬ、うらやましく聞き給ふらむかし。風肌寒く、ものあはれなるに誘はれて、箏の琴をいとほのかに掻き鳴らし給へるも、奥深き声なるに、いとど心とまり果てて、なかなかに思ほゆれば、琵琶を取り寄せて、いとなつかしき音に、「想夫恋」を弾き給ふ。
「思ひ及び顔なるは、かたはらいたけれど、これは、こと問はせ給ふべくや。」とて、切に簾の内をそそのかし聞こえ給へど、まして、つつましきさしいらへなれば、宮はただものをのみあはれと思し続けたるに、「
　　ことに出でて言はぬも言ふにまさるとは人に恥ぢたるけしきをぞ見る
」と聞こえ給ふに、ただ末つ方をいささか弾き給ふ。「
　　深き夜のあはればかりは聞きわけどことより顔にえやは弾きける
」
飽かずをかしきほどに、さるおほどかなるものの音がらに、古き人の心しめて弾き伝へける、同じ調べのものといへど、あはれに心すごきものの、片端を掻き鳴らして止み給ひぬれば、恨めしきまでおぼゆれど、
「好き好きしさを、さまざまに弾き出でても御覧ぜられぬるかな。秋の夜更かし侍らむも、昔の咎めやと憚りてなむ、まかで侍りぬべかめる。またことさらに心してなむ候ふべきを、この御琴どもの調べ変へず待たせ給はむや。弾き違ふることも侍りぬべき世なれば、後ろめたくこそ。」など、まほにはあらねど、うち匂はしおきて出で給ふ。
「今宵の御好きには、人許し聞こえつべくなむありける。そこはかとなきいにしへ語りにのみ紛らはさせ給ひて、玉の緒にせむ心地もし侍らぬ、残り多くなむ。」とて、御贈り物に笛を添へて奉り給ふ。
「これになむ、まことに古きことも伝はるべく聞きおき侍りしを、かかる蓬生に埋もるるもあはれに見給ふるを、御前駆に競はむ声なむ、よそながらもいぶかしう侍る。」と聞こえ給へば、
「似つかはしからぬ随身にこそは侍るべけれ。」とて、見給ふに、これもげに世とともに身に添へてもてあそびつつ、
「みづからも、さらにこれが音の限りは、え吹きとほさず。思はむ人にいかで伝へてしがな。」と、折々聞こえごち給ひしを思ひ出で給ふに、今すこしあはれ多く添ひて、試みに吹き鳴らす。
盤渉調の半らばかり吹きさして、「昔を偲ぶ独り言は、さても罪許され侍りけり。これはまばゆくなむ。」とて、出で給ふに、「
　　露しげきむぐらの宿にいにしへの秋に変はらぬ虫の声かな
」と、聞こえ出だし給へり。「
　　横笛の調べはことに変はらぬをむなしくなりし音こそ尽きせね
」出でがてにやすらひ給ふに、夜もいたく更けにけり。


C:37:06:夕霧帰宅、柏木を夢に見る

　殿に帰り給へれば、格子など下ろさせて、皆寝給ひにけり。
「この宮に心かけ聞こえ給ひて、かくねむごろがり聞こえ給ふぞ。」など、人の聞こえ知らせければ、かやうに夜更かし給ふもなま憎くて、入り給ふをも聞く聞く、寝たるやうにてものし給ふなるべし。
「妹と我といるさの山の。」と、声はいとをかしうて、独りごち歌ひて、
「こは、など、かく鎖し固めたる。あな、埋れや。今宵の月を見ぬ里もありけり。」と、うめき給ふ。格子上げさせ給ひて、御簾巻き上げなどし給ひて、端近く臥し給へり。
「かかる夜の月に、心やすく夢見る人は、あるものか。少し出で給へ。あな心憂。」など聞こえ給へど、心やましううち思ひて、聞き忍び給ふ。
君たちの、いはけなく寝おびれたるけはひなど、ここかしこにうちして、女房もさし混みて臥したる、人気にぎははしきに、ありつる所のありさま、思ひ合はするに、多く変はりたり。
この笛をうち吹き給ひつつ、「いかに、名残も、眺め給ふらむ。御琴どもは、調べ変はらず遊び給ふらむかし。御息所も、和琴の上手ぞかし。」など、思ひやりて臥し給へり。
「いかなれば、故君、ただおほかたの心ばへは、やむごとなくもてなし聞こえながら、いと深きけしきなかりけむ。」と、それにつけても、いといぶかしうおぼゆ。
見劣りせむことこそ、いといとほしかるべけれ、おほかたの世につけても、限りなく聞くことは、かならずさぞあるかし、など思ふに、我が御仲の、うちけしきばみたる思ひやりもなくて、むつびそめたる年月のほどを数ふるに、あはれに、いとかう押したちておごりならひ給へるも、ことわりにおぼえ給ひけり。
　少し寝入り給へる夢に、かの衛門督、ただありしさまの袿姿にて、かたはらにゐて、この笛を取りて見る。夢のうちにも、亡き人の、わづらはしう、この声を尋ねて来たる、と思ふに、「
　　笛竹に吹き寄る風のことならば末の世長きねに伝へなむ
思ふ方異に侍りき。」と言ふを、問はむと思ふほどに、若君の寝おびれて泣き給ふ御声に、覚め給ひぬ。
　この君いたく泣き給ひて、つだみなどし給へば、乳母も起き騷ぎ、上も大殿油近く取り寄せさせたまて、耳挟みして、そそくりつくろひて、抱きてゐ給へり。いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸を開けて、乳などくくめ給ふ。稚児もいとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰め給ふ。
　男君も寄りおはして、「いかなるぞ。」など宣ふ。
うちまきし散らしなどして、乱りがはしきに、夢のあはれも紛れぬべし。
「悩ましげにこそ見ゆれ。今めかしき御ありさまのほどにあくがれ給うて、夜深き御月愛でに、格子も上げられたれば、例のもののけの入り来たるなめり。」など、いと若くをかしき顔して、かこち給へば、うち笑ひて、
「あやしの、物の怪のしるべや。まろ格子上げずは、道なくて、げにえ入り来ざらまし。あまたの人の親になり給ふままに、思ひいたり深くものをこそ宣ひなりにたれ。」とて、うち見やり給へるまみの、いと恥づかしげなれば、さすがに物も宣はで、
「出で給ひね。見苦し。」とて、明らかなる火影を、さすがに恥ぢ給へるさまも憎からず。まことに、この君なづみて、泣きむつかり明かし給ひつ。


　大将の君も、夢思し出づるに、「この笛のわづらはしくもあるかな。人の心とどめて思へりしものの、行くべき方にもあらず。女の御伝へはかひなきをや。いかが思ひつらむ。この世にて、数に思ひ入れぬことも、かの今はのとぢめに、一念の恨めしきも、もしはあはれとも思ふにまつはれてこそは、長き夜の闇にも惑ふわざななれ。かかればこそは、何ごとにも執はとどめじと思ふ世なれ。」など、思し続けて、愛宕に誦経せさせ給ふ。
また、かの心寄せの寺にもせさせ給ひて、「この笛をば、わざと人のさるゆゑ深きものにて、引き出で給へりしを、たちまちに仏の道におもむけむも、尊きこととはいひながら、あへなかるべし。」と思ひて、六条の院に参り給ひぬ。


C:37:07:夕霧、六条院を訪問

　女御の御方におはしますほどなりけり。三の宮、三つばかりにて、中にうつくしくおはするを、こなたにぞまた取り分きておはしまさせ給ひける。
走り出で給ひて、「大将こそ、宮抱き奉りて、あなたへ率ておはせ。」と、みづからかしこまりて、いとしどけなげに宣へば、
うち笑ひて、「おはしませ。いかでか御簾の前をば渡り侍らむ。いと軽々ならむ。」とて、抱き奉りてゐ給へれば、
「人も見ず。まろ、顔は隠さむ。なほなほ。」とて、御袖してさし隠し給へば、いとうつくしうて、率て奉り給ふ。
　こなたにも、二の宮の、若君とひとつに混じりて遊び給ふ、うつくしみておはしますなりけり。隅の間のほどに下ろし奉り給ふを、二の宮見つけ給ひて、「まろも大将に抱かれむ。」と宣ふを、三の宮、「あが大将をや」とて、控へ給へり。
院も御覧じて、「いと乱りがはしき御ありさまどもかな。公の御近き守りを、私の随身に領ぜむと争ひ給ふよ。三の宮こそ、いとさがなくおはすれ。常に兄に競ひ申し給ふ。」と、諌め聞こえ扱ひ給ふ。
大将も笑ひて、「二の宮は、こよなく兄心にところさり聞こえ給ふ御心深くなむおはしますめる。御年のほどよりは、恐ろしきまで見えさせ給ふ。」など聞こえ給ふ。
うち笑みて、いづれもいとうつくしと思ひ聞こえさせ給へり。
「見苦しく軽々しき公卿の御座なり。あなたにこそ。」とて、渡り給はむとするに、宮たちまつはれて、さらに離れ給はず。宮の若君は、宮たちの御列にはあるまじきぞかしと、御心のうちに思せど、なかなかその御心ばへを、母宮の、御心の鬼にや思ひ寄せ給ふらむと、これも心の癖に、いとほしう思さるれば、いとらうたきものに思ひかしづき聞こえ給ふ。
　大将は、この君を、まだえよくも見ぬかな、と思して、御簾の隙よりさし出で給へるに、花の枝の枯れて落ちたるを取りて、見せ奉りて、招き給へば、走りおはしたり。
二藍の直衣の限りを着て、いみじう白う光りうつくしきこと、皇子たちよりもこまかにをかしげにて、つぶつぶときよらなり。なま目とまる心も添ひて見ればにや、眼居など、これは今すこし強うかどあるさままさりたれど、まじりのとぢめをかしうかをれるけしきなど、いとよくおぼえ給へり。
口つきの、ことさらにはなやかなるさまして、うち笑みたるなど、「我が目のうちつけなるにやあらむ、大殿はかならず思し寄すらむ。」と、いよいよ御けしきゆかし。
　宮たちは、思ひなしこそ気高けれ、世の常のうつくしき稚児どもと見え給ふに、この君は、いとあてなるものから、さま異にをかしげなるを、見比べ奉りつつ、
「いで、あはれ。もし疑ふゆゑもまことならば、父大臣の、さばかり世にいみじく思ひほれ給うて、『子と名のり出でくる人だになきこと。形見に見るばかりの名残をだにとどめよかし』と、泣き焦がれ給ふに、聞かせ奉らざらむ罪得がましさ。」など思ふも、
「いで、いかでさはあるべきことぞ。」と、なほ心得ず、思ひ寄る方なし。心ばへさへなつかしうあはれにて、睦れ遊び給へば、いとらうたくおぼゆ。


C:37:08:夕霧、笛を源氏に託す

　対へ渡り給ひぬれば、のどやかに御物語など聞こえておはするほどに、日暮れかかりぬ。
昨夜、かの一条の宮に参うでたりしに、おはせしありさまなど聞こえ出で給へるを、ほほ笑みて聞きおはす。あはれなる昔のこと、かかりたる節々は、あへしらひなどし給ふに、
「かの想夫恋の心ばへは、げに、いにしへの例にも引き出でつべかりけるをりながら、女は、なほ、人の心移るばかりのゆゑよしをも、おぼろけにては漏らすまじうこそありけれと、思ひ知らるることどもこそ多かれ。
過ぎにし方の心ざしを忘れず、かく長き用意を、人に知られぬとならば、同じうは、心きよくて、とかくかかづらひ、ゆかしげなき乱れなからむや、誰がためも心にくく、めやすかるべきことならむとなむ思ふ。」と宣へば、
「さかし。人の上の御教へばかりは心強げにて、かかる好きはいでや。」と、見奉り給ふ。
「何の乱れか侍らむ。なほ、常ならぬ世のあはれをかけそめ侍りにしあたりに、心短く侍らむこそ、なかなか世の常の嫌疑あり顔に侍らめとてこそ。想夫恋は、心とさし過ぎてこと出で給はむや、憎きことに侍らまし、もののついでにほのかなりしは、をりからのよしづきて、をかしうなむ侍りし。何ごとも、人により、ことに従ふわざにこそ侍るべかめれ。齢なども、やうやういたう若び給ふべきほどにもものし給はず、また、あざれがましう、好き好きしき気色などに、もの馴れなどもし侍らぬに、うちとけ給ふにや。おほかたなつかしうめやすき人の御ありさまになむものし給ひける。」など聞こえ給ふに、
いとよきついで作り出でて、すこし近く参り寄り給ひて、かの夢語りを聞こえ給へば、とみにものも宣はで、聞こし召して、思し合はすることもあり。
「その笛は、ここに見るべきゆゑあるものなり。かれは陽成院の御笛なり。それを故式部卿宮の、いみじきものにし給ひけるを、かの衛門督は、童よりいと異なる音を吹き出でしに感じて、かの宮の萩の宴せられける日、贈り物に取らせ給へるなり。女の心は深くもたどり知らず、しかものしたるななり。」など宣ひて、
末の世の伝へ、またいづ方にとかは思ひまがへむ、さやうに思ふなりけむかし、など思して、この君もいといたり深き人なれば、思ひ寄ることあらむかし、と思す。
　その御けしきを見るに、いとど憚りて、とみにもうち出で聞こえ給はねど、せめて聞かせ奉らむの心あれば、今しもことのついでに思ひ出でたるやうに、おぼめかしうもてなして、
「今はとせしほどにも、とぶらひにまかりて侍りしに、亡からむ後のことども言ひ置き侍りし中に、しかしかなむ深くかしこまり申すよしを、返す返すものし侍りしかば、いかなることにか侍りけむ、今にそのゆゑをなむえ思ひ給へ寄り侍らねば、おぼつかなく侍る。」と、いとたどたどしげに聞こえ給ふに、
さればよ、と思せど、何かは、そのほどの事あらはし宣ふべきならねば、しばしおぼめかしくて、
「しか、人の恨みとまるばかりのけしきは、何のついでにかは漏り出でけむと、みづからもえ思ひ出でずなむ。さて、今静かに、かの夢は思ひ合はせてなむ聞こゆべき。夜語らずとか、女房の伝へに言ふなり。」と宣ひて、をさをさ御いらへもなければ、うち出で聞こえてけるを、いかに思すにかと、つつましく思しけり、とぞ。